春の見方

今年は花見に三回行った。
  最初は仙厳園(鹿児島市)の上にある磯山遊園地で、錦江湾と桜島をバックに、お弁当持参での花見ランチ。この場所は、仙厳園の庭師の知人に教えてもらった。普段はキクの栽培をしているので、一般には開放していない。サクラの時期だけ期間限定で入園できるとか。
  以前は、仙厳園からロープウェイでつながり、誰でも訪れることができた。私も子供のころはよく家族で遊びに行き、ゴーカートやミニ動物園を楽しんだ記憶がある。
  閉鎖され残念に思っていたので、入れると聞いて早速、友達に連れて行ってもらった。
  ここからの桜島はテレホンカードにも起用されるくらい絶景の場所。この日はNHKの大河ドラマ「篤姫」の撮影隊も来ていた。晴れ渡る青空と鹿児島湾に浮かぶ雄大な桜島。
  手前に淡いピンクのサクラの花のコントラストが、見事に調和されて美しかった。
  翌日、ハウステンボス(長崎県)のチューリップを見に行った。まるで別世界の異国の花畑に来たようだ。赤、黄、ピンク、白、紫・・・と、マジックカーペットになった百万本のチューリップは、目の保養になり、心に春の訪れを感じさせてくれた。体の中で眠っていたものが、太陽の光を浴びて芽生え、ぐんぐん成長しているような、不思議な感覚がした。
  その翌日は、吉野公園(鹿児島市)であこがれの「夜桜」を初体験した。夜風にヒラヒラ舞う花びらのジュータンの上でみんなで乾杯。手作りのおにぎりの上にも花びらが降りてきた。何もかもが幻想的で、ライトに照らされた桜も、時折吹く風に乗って花吹雪のようだった。花見も、いろんな角度から見ると何倍も楽しめる。

南日本新聞夕刊 平成19年 日刊20814号

  ちょうど二十年前の今頃の季節に、私はアメリカのカルフォルニア州サンノゼに渡り、それから十一年間住んだ。理由は、ただ単に桜島の火山灰から脱出したかったから。
  そのころは毎日、スゴイ量の灰に悩まされていた・・・。
  なら別に、鹿児島市外でも福岡でもいいじゃないか、と思われるだろう。そのころ、親友が私より一年前に渡米していたので、最初は半年間、「アメリカ生活をエンジョイしながらデザインの勉強をしよう」と気軽に遊びに行く感覚だった。
  知り合いが一人いるだけで、何の心配も苦労もなく渡米できた。もちろん、親は反対するかもしれないので、半年前からしっかりと根回しはした。自分の誕生日に家族全員を温泉に招待して、気嫌のいい時に「アメリカに行ってもいい?」とさりげなく聞いて承諾を得た。
  渡米数ヶ月前になると「危ないからやめなさい」と猛反対されたけど、「大丈夫よ。お友達の所に遊びに行くから」と言い切って出発。特に英語力に優れていたとか、お金に余裕があったかというわけではなく、あったのは度胸と知人だけだった。
  よく留学や移住したい人がいるけど、行かなかった人のほとんどが、この「度胸」と「人脈」がないか、行けない理由の「・・・がない」を作り、自分の夢の芽を摘んでしまうケースが多いようだ。
  サンノゼでは、灰はもちろん、雨も半年間一滴も降らなかった。あるパーティでルームメイトにカサをプレゼントしたら笑われた。雨はほとんど降らず、降ってもドアツードアの車社会でカサはいらないという。この話しはしばらく笑いのネタにされた。
所変われば普通が普通でなくなるのだと、あたらめて知った。

南日本新聞夕刊 平成19年 日刊20814号

褒めて伸ばす

  「親子ねんど教室」をやっていると、実にいろいろな親子と触れ合う。いろいろ・・というのは、世の中にはそれぞれの親子関係、タイプがあるのだと、つくづく感じさせられるからだ。
  ねんど教室では、大人も童心にかえって思いっきり遊んでもらう。大人が遊べば子供が遊びたがる気持ちがわかる。親子で触れ合い、楽しい思い出づくりにもなると思う。
  とある市の議員さんが私のアトリエを訪れたとき、ねんど遊びを勧めた。議員さんは「私は遊ぶことはいけないことだと思っていました。父親がいつも『遊んでいないで勉強しろ』と言っていたから、遊ぶことってなかったですねぇ」と言いながら、ぎこちなく地球を作った。
  言われてみれば、世の中の親の口癖は「いつまで遊んでいるの!早く勉強しなさい!遊んじゃダメ!」誰でも一度は耳にしたことがあるフレーズだ。勉強することはいいことで、遊ぶことは悪いことだ、と子供心に植え付けられ育ってしまった議員さんだったのだろう。
  ある友人は小学校一年生のとき、音楽の先生から「あなたは音痴ねぇ」と言われ、それ以来、トラウマになって一切歌わなくなったそうだ。大人になった今でも、カラオケに行っても歌わない。
  よく大人が何気なく「不器用ね」という。この言葉も気をつけたい。小さい子供に「あら、上手ねぇ」と言うと、子供はみんな「うん」と言う。もし誰かが「この子、不器用ねぇ」なんて言ったら、その子は「自分は不器用なんだ」と思い込んでしまって、ますます下手になる。伸びる芽をたった一言が摘んでしまうかもしれない。ならば温かい言葉で褒めて伸ばしてほしい。

南日本新聞夕刊 平成19年 日刊20814号

アメリカ大陸横断

  二十年前、アメリカのサンノゼでしばらく暮らした。
  そこはシリコンバレーの街として有名で、日本の商社マンが多かった。
  日系二世、三世も多く日本人街もあり、「アメリカ人の多い昭和初期の日本」のような感じがした。
  片言の日本語をしゃべる日系三世の家に滞在した。
  一軒家の三ベットルームを借りて、家賃はナント一ヶ月百ドル。
  日系二世の友達から五十ドルで車も譲り受けた。
  だが、季節の変化はなく、のんびりした生活で刺激も少なく、二年半でこの生活から脱出することにした。ちょうどルームメイトがニューヨークの企業に引き抜かれたので、男一人女三人で、トラックの荷台にカバーを付けて大陸を横断することにした。チャレンジ精神旺盛で、「よし、ニューヨークで一年間、勉強してこよう」と意気込んだ。
  アメリカの西と東では、気候はもちろん、文化、習慣、とにかくすべてがあまりにも違う。西のカルフォルニアンはニューヨーカーを嫌い、ニューヨーカーは西の生活にはなじめないという。
  「なぜ、あんな街に行くの?」と全員が反対したけど、好奇心いっぱいの私たちをもはや誰も止めることはできなかった。
  サンノゼに別れを告げ、大陸横断へ。トラックの前に二人、荷台に二人が乗ってナビをする。
  ルートは、治安のよさそうな北側を選んだ。
  ソルトレイクシティまではスムーズに行った。
  この後、ニューヨークまで日本食レストランはないかも・・・。そう思い、日本食レストラン探しをする私たち。レストランどころか店すらなさそうな州を横断するので、電気釜、米、塩、梅干しを購入した。
  遠く離れた異国にいても、食生活は日本人だなあと思った。

南日本新聞夕刊 平成19年 日刊20822号